文の京探検隊 ~上善如水 モノ言う市民のすすめ~

市民と行政担当部局とのやり取りからみえる問題点は? 行政との協働推進に当たっての方法を模索していく。協働協治とは何か? 皆で市民となり、 市民が主体のまちづくり。

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命の尊厳

一日の休みもなく、早いもので雑歩庵も5年目に入る。
昨年の4月からは、新しく地域猫の問題にも取り組みはじめ、
今年に入り、事務所も開設した。
事業は増えていく。
社会のニーズを判断し、行動していく。
なぜ地域猫に取り組むこととなったかは、いずれあらためて・・・。
界隈の方だけでなく、文京区在住の方だけでなく、他区からもスタッフが集まってきている。
相談も絶えない。
先日は日経マガジンで紹介された。
雑歩庵の理念は、命の尊厳。
私たちは組織として活動している。

最近、市民活動と市民運動と住民運動とボランティア活動とどう違うのかと、聞かれることがあった。
また、先日参加したあるフォーラムで、座長のひとりが終始一貫して「市民運動」と発言していたことがとても気になった。

それらは皆異なり、どの言葉を使うのかは、どういう意識かを示していることでもあると思うが、
しかし、そんなことより、今何をしているのか、が重要だろうと思う。
もうそんなことにこだわるより、新領域に向かう。
このこともあらためて。

雑歩庵をはじめて、当初からの目的のひとつ、オープンコミュニケーションスペースつくりは、少しずつ絵が描けるようになってきた。
いろいろな領域の人たちと知り合い、
体験や経験を積むことで、
従来の価値観に縛られることなく、
新領域の価値観の創出・・・
コミュニケーションとは何かを問いつつ、
毎日、胃が痛くなるような不安と使命感と責任とが入り交じり、
仕事をしている。

反対運動ではなく、
個人の好き・嫌いではなく、
よい・わるいではなく、
私たちが求める「場」を、
行政にお願いするのではなく、
何が必要なのか、
自分が何ができるのか、
何をすべきか、
自らが社会を信じてすることとは何かを気づき行動していくこと。
大きなことをするのではなく、
地道に歩み続けること、
日々続けていくこと。







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国民の義務

中越沖地震を知ったのは、ヨーロッパにいた時であった。
CNNやBBCでもニュースに流れていた。
大型台風が日本に上陸するというニュースを聞いていたので、そのことを心配していたら、飛び込んできた知らせは地震そして原発火災。
携帯電話やインターネットは便利なもので日本のニュースを知らせてくれる。日本で使っている携帯電話がそのまま海外で利用できたり、インターネットで日本での報道がキャッチできるなど以前はほとんど考えられなかった。
阪神大震災の時、日本にいなかった。
海外在住の日本人は情報がなかなか入らないことにかなり苛立っていた。その後のオウムサリン事件。度々日本に電話しては情報を得ていた。
以前、海外で飛行機事故に遭った時、日本人乗客は私一人で、私の名前がある新聞に掲載されたことがあった。
しかし現地日本大使館は日本人無しとの情報を得て、日本に外電を打ってしまっていた。後で日本人が一人いたことがわかったのだが、正確な情報は新聞社の方がつかんでいたこととなる。
日本大使館は、現地航空会社の話しを真に受けそのまま信じてしまったとか・・・。
この時、同乗していたフランス人の友人に「大使館に報告すべき」と言われ、自分が無事であったということですぐ報告していなかったのだが、「報告するのは国民の義務だ」と言われ大変に恥ずかしかった。
飛行機の主な乗客はフランス人、ドイツ人、香港人であった。
すぐに駆け付けてきたのはフランス大使館員。
今でも覚えている。フランス大使館員の言葉を。
「あなたのために今何をしましょうか?」
これはもちろん決まり文句と言えばそうかもしれない。英語もしかりかもしれない。
この時の日本大使館に電話した私への言葉は、
「日本に外電を打ち直さなければならないので直ぐに大使館に来て下さい」であった。陸軍病院にいた私は、このあまりの違いにとても愉快ですらあった。
ニューヨーク9.11事件の時、知人が学生を連れてニューヨークにいた。事件に遭遇し、どうしたらよいかと日本領事館に行ったところ、領事館は門を閉めて彼ら日本国民を追い出したという。この事件の時に閉め出された多くの日本人を救ったのは、ニューヨークのJTBやANAなど日本企業であった。ツアーや飛行機に関係なく、困っている日本人を救っていた。

情報とは何だろうか。
生きていく上での選択の機会のひとつ。
何も日本の役人を特別非難するつもりもない、自分の身を守るのは自分だが、何を信じるか、何をすべきか、あらためて考えた。

路地ギャラリー

ゴールデンウィーク中は、雑歩庵のまちのえき周辺は昨年より人通りが多かったようだ。
若者たちの自主映画制作の協力や文京猫ねこ愛護会のチャリティなどもあり、休みなく仕事は続いていた。
偶然にまちのえきに訪れた方が、数日後に白山通りを歩き、その活動の状況をみて協力をして下さったりする。
「これは大変ですね」と見るに見かねて協力下さる。大変そうだから手伝おうという気持ちは当たり前のことだが、本当に動かれる人は少ない。
毎週早朝の白山通りでの活動時にも、声をかけて下さる方が多い。
「歩いていて幸せな気持ちがする道になった」との言葉に、スタッフは疲れも癒されるようだ。
社会に思いがあり活動する者たちが、たとえ意見は異なるとしてもつながる時がある。
その一つ一つのつながりは大切にしていきたい。
それは社会に個人的な思いを反映させようとするものではなく・・・。
私たちは「個人の思い」や「意地」で動くことはない。

まちのえきには、界隈の写真などが壁に掛けられているが、その中には元町公園の写真パネルもある。パネルには、特別にコメントが添えられているわけではないが、まちのえきに訪れる人で、足を止めて見る人は多い。
「どこにある公園ですか」との質問も多いが、現在の状況を知っている人も多い。それぞれ元町公園に関する感想を述べて行かれる。
なるほどと、その度に感じる。
人が何に関心を持つのか、持っているのか、何気ない会話の中にもあらわれる。
「パラダイム・チェンジとは何かを問いつつ、社会とコミュニティを観察すること、次にその変化が一時的なものでなく、本当の変化であることを示す証拠はあるかを問うこと、そして、もしその変化に意味と重要性があるのであれば、それはどのような機会をもたらすのかを問うこと」
この言葉は、今、まちのえきに貼られている。

雑歩庵では、近いうちに「路地ギャラリー」をオープンする。
内装のデザインがほぼ決まり、進んでいる。
ここもオープンコミュニティスペースの一つであり、多くの方々に活用して欲しいと思う。自由に表現して欲しい。
その他のスペースも計画中で、常に次を考えつつ動くのは当然のことだが、胃の痛むこともある。それでも、様々な因果系列、必然と偶然の交わりを肌で感じる「時」の責任も含めて、やりがいも大きい。

選挙が終わって

選挙が終わり、文京区議は少し若返ったような…。
若い議員だと、いじめられたりばかにされたり、これから辛抱の日々だろうか。
いろいろ言う人もいるかもしれないが、票を得て当選したことは民意。
忘れずに区政のために動いてほしいと思う。

雑歩庵のまちのえきには、普通に人が日々立ち寄って、まちの話しをしたり、おしゃべりしたり、一緒にお茶を飲んだりする中で、何ができるのかを考えることもある。
そんな当たり前のことが、ただ普通に毎日続く。

まちに関心のないことが、気がつかないことが、何をもたらすのか…。
人に関心を持ってもらうこと、
何ができるかを一緒に考えること、
それは、反対ばかりから始まるのではなく、
何かに関心を持ち、社会にできることをしていくこと。

先日、地方の青年団体の依頼で講演をしてきたが、
彼らの組織力、若手の力強さに接し、私の暮らす文京区をあらためて考えてみた。
残念ながら文京区では、この青年達のような前向きなエネルギーを感じたことはない…。
若い人たちに頑張ってほしい。
そういう場を、雑歩庵では積極的につくっている。






公園は誰のものか

公園は誰のものか?

本郷元町公園や新大塚公園の件は新聞などでも紹介されているが、一体どれだけの区民が関心があるのだろうか。
反対する人たちは、「誰もが認める公園」「皆が・・・」とするが、現実はどうだろうか。
私は、公園が無くなってよいとは思わないが、反対運動はしない。
自分の主張を「ほんとう」と発信することはしない。
賛成・反対の立場ではなく、対応していきたいと思う。
政党と一緒に動くことも、選挙に利用する・されることからも離れていたい。
市民として、今後も公園緑地、オープンコミュニティスペースについて考え、毎日、普通に、地域社会がよりよくなればと活動していくだけである。
より多くの市民のために活動するのが、市民活動であろう。私は反対運動や住民運動ではない所で考え活動したいと思う。

公園とは何か。
昔の立派な人物が造ったから、住民・市民にとって大切な「公園」ではなく、
文化庁が認めたから、残すべき「公園」ではなく、
学者が認めたから、権威ある「公園」ではないと思っている。
そういう現実があることは事実として、そこから離れて公園を考えたい。
公園は、土地を制度上「公園」とするもので、公園と同様の役割を果たしている場所は他にもあるだろうが、それが少なくなってきている。
ある人たちが、「これが公園」と叫ぶ一方、それに疑問を持つ者、参加できないまたは関心が無い等の人たちがいるのも事実であろう。
何が良くて悪いということではない。
おそらくそれぞれに公園に対しての価値観があるだろう。
これが正解であるということは、ないと思っている。

公園を造ったのは、行政や造園関係者といったプロの集団であるはずだが、その公園を利用する人が少ないのは、どうしてだろうか。
公園に関わる者は、繰り返し真摯に反省する必要があると思う。
利用者も、同様である。

何をどうすれば、よりよい未来に繋がるのかは、まだわからない。
それでも、おそらく、人の数ほど「公園」に対する思いがあるだろう。
それが自分の思うことと、自分の正義と異なるからと言って、排除することは愚かだ。

まちの中にある特に街区公園のような公園は、地域の人たちや利用者が公園に関心を持ち続け、公園と言う場でいろいろな共同作業をしつつ、地域が繋がっていく機会を持つ、将来への可能性を持つ、夢の持てる場だと思っている。
公園をどうするのかではなく、本来、利用者が公園に何をするのか、何ができるのかが、重要なことではないかと思う。
それでも時にはその公園が必要かどうかの議論も大切だと思う。
別の役割を考えることもあるかもしれない。

公園は
自分をことさら主張する場でもない。
権威が認めたから、大切なのではない。
文化庁が認めたから、文化ではないだろう。
公園文化は、権威がつくるのでもなく。

「公園」はこうあるべきもの、残すべきもの、
・・・などではなく、いつしかすり込まれている価値観から離れ、自分の好き嫌いから離れ、見つめたい。
私は、行政でもなく学者でもなく造園関係者でもないので、一利用者として今後も自分の思うことを述べても、仕事に差し障りも無い。
粛々と続けるだけである。

ブログへのコメント受付に関して

他団体の掲示板が荒らされている。
残念なことだと思っている。
匿名のまま書き連ねているが、一体何が目的なのだろうか。
掲示板で問題解決ができるのだろうか、
掲示板は悪化するだけで、問題が改善されたことはあるのだろうか。

このブログにも、たびたび雑歩庵に来ていた方が、なぜか、匿名のままにコメントを入れていることがある。
私は、顔の見えるゆるやかな関係づくりを大切にしているが、
訪れる人が全てそれを大切にしているわけではないようだ。
私に会っているのだから、直接、思うことを述べてもよいと思うのだが、不思議である。
会っている時には、コメントに入れたようなことは話しにも出ない。
それがゆるやかな関係と思っているのだろうか。

インターネット上では、ログが残るので、誰がしたのかは、調べればわかってしまうことが多いのである。

掲示板を荒らす方も、ブログにコメントを入れる方も、
自然とわかってしまうので残念でもある。

誰を信用するのか、誰も信用できないのか、
大方の人は、自分の目先の都合でしか動かないのか、
すぐ人を信用してしまう私の自覚が全く足らないのだろう。

このブログには、残念ながらコメントも多くは無い状況ですし、
直接会っているにも関わらず、匿名のまま入ってくる人もいるので、
当分は、コメントを受け付けることは控えます。
何かご意見、ご質問があれば、メールにてお知らせ下さい。



市民活動

別のブログである「魅惑の公園物語」を読んで、フォーラム元町の風のメールにk氏からご意見が送られてきた。
この件に関しては、「魅惑の・・・」のブログに私の感じることを先ほど書いた。
K氏は、新大塚公園の件がテレビで紹介された時、コメントをしていた方である。
「造園等関係諸領域の学会に属する諸先生がご覧になられたりしますと、御不興、誤解を受けるような表現を拝見・・・。検索等で「ひっかかり」ますので、その点はご訂正になった方が・・・と老婆心、蛇足ながら」ということである。
K氏は、「これは保存運動の内輪もめとの指摘を受けている」とのことであった。

私が何をどうして訂正しなければならないのかはわからないが、k氏は訂正した方がよいということである。
この件で、他の方から私のブログやメールにコメントは来ていない。
そんな狭量な先生方ではないだろう。

保存運動の内輪もめとの指摘といわれるが、その内輪とはどのような構成なのか?
雑歩庵に関しては内輪もめなどないはずだが。

私は、雑歩庵に所属し、元町公園の件では写真展示会などを開いてきた。(この展示会の件に関しては、別のHPで詳細を説明することになるかと思う)
それは、元町公園における都市計画変更に関して、多くの方々がまずは知ることが大切だと思ったからであるし、元町公園は普段から利用者が少なく、この計画も当初はあまり区民に関心がなかったようなので、雑歩庵で公園緑地の写真展示会をし、関心を持ってもらうように努めた。
まずは知らせる、そして知ったまたは関心を持った区民はどうするのか・・・?
どうするのかを、こちらが「これが正しい、正義だ」と言えるわけはない。押し付けることはできない。

雑歩庵は、反対運動をしているわけではない。
元町公園のよりよい保存のあり方を模索しているのである。
保存とは、そのまま残すことだけではないだろう。
私は都市計画案反対運動をしているのではない。

元町公園の一連の要望書に目を通した後、とても悲しくなってくる。
その要望書のどこにも、現在の利用者の姿がない。過去のお話しばかりである。
誰が造った、関わった、歴史だ文化だ・・・。
利用する人の姿は見えてこない。

以前、このブログで、匿名性について触れたことがあった。匿名を全て否定するつもりもないが、私は少なくとも自分を安全な場所においたまま意見を発信することは、その意見の内容によっては卑怯であるとも思っているので、名前を出し、事務所の看板を掲げて活動している。
NPOとして働くことは、市民運動とは違う。
自分の主義主張のためではなく、より多くの利益のために、より多くの人のために動くことが市民活動であろう。
NPOは事業体である、組織として責任もあり、自由で勝手気ままなわけはない。

元町公園の都市計画案に反対している方々が、「私達は勝手連だから」「ゲリラ活動である」と言っていたが、雑歩庵では、全く考えられないことである。

それぞれにがんばればよいことだろう。
しかし困ったことに、「自分たちが正しい、正義だ」とする人たちは、異なる意見があることを受け入れることができないらしい。
ひとつの組織の中にも、異なる意見の存在は必要である。全て同じ価値観、意見で固まっている組織は、長続きしないものだろう。

対話・・・

このところ対話について色々と取り沙汰されている。
区長対話もしかりだが、
対話とは、少なくとも、自分の都合のよい話し合いが対話と言うことではない。
対話はおしゃべりとも異なる。
インターネット上などでの匿名のままのおしゃべりする関係でもない。
自分の都合で簡単に切れたりつながったりすることではないだろう。
対話は相手と言葉を交わすことで、精神性をも深める。
またそこには言葉だけでなく、言外のものも重要となるだろう。

時には、自分にとって異なる考え方が返ってくることもあるだろう。
対話は、自分の考える主張を一方的に伝えることでもなく、
相手を説得しようとすることでもなく、
お互いで作り上げていく、とても建設的なことだと思う。

そんなことは皆承知のことだろう。
しかし、それがなかなかできない。
本当に対話をするには、深い誠意ある心、真摯な態度が必要かと。
対話は、とても簡単に言うとしたら、相手の話を聞くことができない人にはできないだろう。
それに片方だけが対話をしようと思っても、相手にそのつもりがなく
単なるおしゃべりにしたがる場合もあるのだから。



街かど対話

今月17日に街かど対話が行われる。
昨年、文京に自然を育む会のメンバー数人が、参加したことがあった。
私は参加できなかった。
区長は、今取り沙汰されている問題への答えは用意しているだろうとは思っていた。
さて、区長(広報課及び担当部局)はやはり準備していたようであった。残念ながら参加したメンバーにとっては、その意見交換は納得のいくものではなかったようだ。
意見交換の時間は長くは取れない為、終わった時に資料を区長に渡し少し話す時間を作ることとなった。
区長は「松田君(土木部長)はそういうことをする人間ではないんだがなあ」と。
区長は、職員の言うことには耳を傾けるが、区民の声を聞こうとはしないということだ。区長は誰から宣託を受けているのか。
広報課職員は、「土木部はがんばっている。話し合いをしようとしないあなた方が社会性がない」と公言している。

この広報課職員の言った『話し合い』の件を少し説明すると、
昨年7月に公園課と話し合いをした後、次回の話し合いをすぐにすると篠原課長は公言したが、公園課は忙しいという理由で2ヶ月も行おうとはしなかった。
9月に入り公園課から話し合いの日程の連絡が急に入った。電話をもらってから4,5日しか日が無かったために、その日は集まることができない旨を伝えると、彼らは強硬な手段を取ってきた。話し合いは開かれていない。
広報課の職員の言う社会性とは何だろうか。

<この文京に自然を育む会に関する一連の問題は、未だ解決したわけではないが、こちらで検証しただけで終わらせずにあらためて別の機会に情報を発信しようと思っている。
多くの方の参考となれば幸いだと思います。
本郷給水所公苑に関わった土木部を中心とする職員の問題や町会長、文京区民、議員、会のメンバー達がどう関わったのか。この間にはあるNPOの理事からは事実と異なる中傷とも受け取れかねないメールなどもあり、単なる公園の問題として片付けられないものであった。このような公園の問題が二度と繰り返されないためにも発表していきます。>

街かど対話は、区長が直接意見交換と謳ってはいるが・・・。
私の知っている範囲では、それは意見交換にはなっていない。
広報課職員の発言には困ったものだが、全ての職員がこのような発言をするというわけではない。
区民に役立つようにと仕事をしている職員もたくさんいることも知っている。

『対話』、区民が選んだはずの区長がこれをできなくてどうするのだろうか。
しかし少なくとも再選で選ばれたのだから、これは区民がよしとしているわけである。
この区は、区議も区民からしても対話ができない人が多い。
仕方ないか、挨拶からしてできない人ばかりなのだから。








挨拶は人としての基本ではないのだろうか

以前、文京区役所の職員が、まちで会っても挨拶もしないということに
触れた。
先日、文京区の区道を、たばこを吸いながら歩いている区役所職員がいた。
首からは文京区役所職員と書いたカードを下げているので、誰でもわかる。
歩行禁煙の条例を知らないのだろう・・・。
困ったものだと思う。
昨日だが、ある懇親会に出席したところ、宮崎区議会議員が来た。
彼もいつ会っても挨拶をしない。
給水所公苑の件で、彼は関わってきたが、特に成果を出すこともなく、
中途半端にいい加減に関わっただけである。
もちろん、区議に頼れば何とかなると思うわけでもなく、
関心があったから、関わってきたのかと理解したが、彼は公園に関しての認識も足りなかったようだ。
責任と言うことも知らないらしい。
昨日彼は、参加者の前で、「新大塚公園や元町公園で忙しく、ご無沙汰をしてすみません」と話したが、これが議員の語ることだと思うと、大変に残念だ。
結果を出す前に、忙しいということを堂々と理由にあげるなんて、
彼は社会で仕事をしたことがないのだろうか。
まともに社会で働いたことのある人なら、忙しいということを理由にはあげない。
ボランティアの宮崎と掲げているが、だから、ボランティアがいつまでもお遊びのままなのだろう。

挨拶は、人としての基本である。
文京区は1700票で議員になれる。その票分だけでよいというのでは、先はないだろう。
本当に彼は愚かだと思う。挨拶は人と人を結ぶものだし、次の段階へと進めるものだ。

役人とか議員とかそういう問題ではなく、人としての問題だろうけれど。
来年の選挙では、小さい視点にごまかされることなく、きちんと見極めないといけないが、現在の議員がそのまま立候補するつもりだろうか。
東村議員は出ないと聞いたが。
それにしても票を入れたい人がいない。






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